53章 神の御物
「これを持っていきなさい」
何処からか現れた鏡を差し出された。丸い掛け鏡。鏡を縁取るものは銀。
裏側に魔法陣が彫られていた。それがじいさんの望んでいた物か。
間違ってもこれが国の宝重となることはないのだろうが、あのじいさんの望む物だ。
自分の手で得ようとしない時点で厄介な代物とわかる。俺に回される仕事はそんなものだ。
こいつに触れさせないようにしないとな。清海は気絶していた。
魔力をまともに制御出来ない奴がそれに触れればどうなるかは予測がつく。
こいつが今気を失っていたのはちょうど良かった。気絶していなければ、こいつが受け取ろうとしただろう。
俺は鏡を受け取るより先に清海の右腕を掴む。
そこで俺は俺らしからぬ行動に気がついた。何故こいつを鏡より優先した。
今までたとえ同行者がどうなっていようと放っていた俺が。目的の物さえ得れば他人はどうでも良かった。
だが、今更掴んだ手を離すのも不自然。ふん、不自然か。
不自然という言葉が浮かんで自分に呆れた。今更そんな事を気にするようになったとは俺も殊勝になったものだ。
……掴んだものは仕方ない。こいつを分類分けしようとすることがアホらしい。
どうせ手を掴んだ時に背負うつもりだった。いちいち自分の行動に否定をつけてもいられない。
清海を背負って片手で支え、差し出された鏡を掴んだ。どうするか考える必要はなくなった。
耳の奥に擦れた音が響いたと知覚した時には目の前の女が消えていたのだから。
目の前の風景が変わった。白い霧の直中。霧の中に見つけた草に目的を思い出し根本から千切る。
手に千切る草の手応えを感じた時はまた別の場所。洞窟の中。
首を持ち上げた時にはまた既に別の空間へ、洞窟の外へと出た。
乾いた音がするたび、俺は別の風景を目にしている。原因は……この鏡だろうな。
瞬く間には目の前の光景が翻り考える隙間がない。段々と俺のいた場所を逆行しているのか?
過去を遡っているようだが、過去へと移動しているわけじゃない。
洞窟に入る前に歩いていた道は雨が降り、止んだ証拠は地に足がついただけでも判った。
砂漠に面したこの山脈に雨季が訪れるにはまだ早い。季節外れの雨は地形に影響するな。
雨雲はシェルに面している部分からこの山脈に至るまで広がっているようだ。異常気候だ、これは。
だが、あの砂漠に雨季の訪れはこの数百年あり得なかった。起こるはずもないことだが……
嘆きの蛇がいる限り、あの地に雨雲が近づくことはない。そえゆえ彼の地は砂漠と化した。
シェルに伝わる童話を知る者からすればこの光景は夢かと自分の眼を疑うものだった。
『────!』
デリス山脈からも移動する際、最後に天から下った聞き覚えのない咆吼を耳にした。
……そういうことか。このバカが何かやらかしたな。そう考えれば説明はつく。
現状を打破する手として龍が降臨するか蛇自身が昇華をすれば雨も降ると言われてきた。
俺の背に寄りかかっているこいつは学者が悲願してきたことを平然とやってのける。
金も権力もなくとも、自然に干渉する能力を有していればどうにかなるらしい。
仮説を立てる間にも立ち替わり入れ替わり風景は変わっていた。人影はその間見つからなかったが。
じいさんの屋敷の中。俺の立ち位置の先には茶を飲んで窓の外を覗いているじいさんがいた。
「おい、じいさん」
「おお速かったのレイ」
「薬草とこいつらに任せた物だ」
「うん、間違いないの」
「当然だ」
目まぐるしい移転の中で放さなかった薬草と鏡を手放した瞬間、また目の前は変わっていた。
何故止まらない?
鏡を手放して尚も風景は変わりゆく。じいさんの屋敷からまだ移動している。
移動するたび少しずつ一定の場所に留まる時間は延びていくが、止まらない。
鏡を受け取ったじいさんはどうなった。じいさんもまた俺と同じ事になっているのか。
それとも、この事を予測して俺に出向かせたのか……おそらく後者だろう。
加減を気にしないのは何時ものことだが、そろそろ老人の枠に大人しく収まって欲しいものだ。
王城の門と橋が消失してしまい渡ることの出来ない堀の前。二日前、こいつとカイルーンの下へ謁見に行く際通過した。
橋を作り直す為に大工職人と雑用の兵が修正に降りる予算で双方共に頭を痛めているらしい。
何処に橋が飛んでいったかは知っているが、教えてやったところで王族以外元に戻せるわけでもない。
じいさんの名前を出してやるか。確か、この橋を通らないと見ることの出来ない庭園が乙だかどうだか言っていった。
「あ、ディエフ伯爵殿……何用でしょう。申し訳ありませんが現在」
「私のことは気にするな。それよりも、何か困っているように見えるが」
「はっ、しかしお気になさらないでください一両日中には」
「ドネイス公爵がこの橋をなるべく早くに修正して欲しいと仰っていた」
じいさんの名を出して予算引き上げを要求しろ、は貴族語に訳すとこうだったか。
貴族の言葉は回りくどい。だが、じいさんの代理を引き受ける以上は身につけるしかなかった。
伯爵の地位も、魔帝が城に現れなくなったからにはもう無用だが、肩書きは捨てても周囲が忘れない。
「はっ……ありがたいお言葉です」
「では、私は失礼するよ。復旧工事を頑張りたまえ」
貴族ならばどんなに奇抜な方法、出で立ちで庶民の前に出現しようが消えようが。
身分が高いの一言で問題視する者などいない。貴族の真似事もこういう時だけは困らないな。
大工も兵も、空間から消える俺に敬礼こそすれ驚愕など微塵も見せなかった。
それもそうだ。そもそも驚いていないのだから隠しようもない。
街道ど真ん中に移っていた。シェル国の貴族としては最も見慣れた通りでもある。
二日前に辿った形跡に続いて移動している。右を見れば露天の親父が手を振った。
「お嬢さんぐったりしてるね。大丈夫かい?」
こいつは、清海に髪飾りを勧めていた奴か。並べられた商品の中にあれはなかった。
「あ、もしかして買いに来られたのかな?」
「あれは他の娘に売ったのか」
「いえいえちゃーんと残してますよ。貴重な最後の一つですからね、ほら」
「そうか」
「今あなたがお買いになられます?」
「いや……今は時間があまりないんだ」
「では、そのお嬢さんの為にとっておきますね」
首を縦に振ったところで露天の親父から飛び去った。
ここは死山のどこかか。木々が枯れシェルの首都エジストと死山の麓に広がる樹海がよく見渡せる。
魔物の屋敷は自爆ということで跡形は多少残ったが活動拠点としての機能は失った。
じいさんとあいつの取り決めは果たされたというわけか。こうして目にしてみると。
気にくわなかったが、国の裏を司る者同士の契約に俺が指図など出来るはずもない。
魔物が唯一使うことの出来る血で贖う魔法を使ってまで奴がこの国で叶えたかった願い。
それに乗ったじいさん。奴を庇って死んだ姉さん。三者の思惑は何なのか。
じいさんと魔帝については推測の域を出ることはないだろう。聞いて答えるじいさんじゃない。
だが、姉さんのことだけは憶測を持ちたくない。姉さんの気持ちだけは理解したい。
それを聞き出す為にも背中の重みを失うわけにはいかないか。……大概調子が良いな、俺も。
清海を護る理由を一つ加えたところで、死山からもそれまで同様に足が離れた。
魔法陣の上。一気に俺の知らない場所へと移ってきた。天上が見上げないでも見えるのが目に付く。
足下に刻まれた魔法陣の上に降り立つと同時に落下の衝撃としてはと釣り合わない反動に襲われた。
その反動によって円の外に投げ出される。強く腕を回していなければ、清海を落とすところだった。
魔法陣のある石造の堅牢な部屋。その一角にある枠から覗く景色は何処ぞの繁華街が見下ろせる。
繁華街の全貌と言わないまでも様子を窺いしれるということは、此処は高い塔か。
一通り見回したところ、部屋に窓はあるが扉は壁にも床にもなかった。
これでどうやって昇降をする? 石枠の窓付近に梯子は無い。残るは魔法陣だが。
「魔法陣間での移動はこの大陸においてルフェイン以外に実用されていないと聞くが……」
仮にこの魔法陣が使えるものだとするのなら此処はルフェイン国領内であるに違いない。
確認するのなら魔法陣に乗れば良い。それで別の空間に移動するかどうかで判断出来る。
さて、それを確認する前に思い出すべきはルフェインとシェルの近年の関係と俺の立場だ。
時の凍った国とも言われる国とその女王相手にどこまで考えが通じるのか疑問ではあるが。
一年周期で時は凍る。秋が一年の終わりであり、始まりでもある。
ルフェインは春のうちが安全であり最も精密な時期。計算に狂いが生じる確率は低い方か。
ルフェインとシェル、それとカガルには三国間同盟がある。比較的安定した力関係が続いている。
友好的な雰囲気であることはじいさんがルフェインに使者を頼み、その頼みが果たされたことから明白。
カガルもシェルと敵対することがないのは、あの旅の傭兵がシェルに来たことから証明された。
同盟が崩壊する可能性はない。よってルフェインの地をシェルの者が踏んでも捕らえられることはない。
俺の立場はルフェイン国の使者を送ってきたシェル国貴族というところだ。ちょうど伯爵の証は携帯している。
清海を一度背から降ろし、さも仰々しいように抱え直す。いい加減、背負うのにも疲れる。
……清海の立場が特殊だからな。いきなり領内にいようと女王が黙らせるだろう。
魔法陣の中に踏み込もうとしたところで魔法陣が発動する前に景色が一変して空の青に染まった。
空の青、というと。この場合比喩ではなくそのものだった。実際空に浮いて存在している。
浮き続けることなど浮遊術もなしに出来るわけもないのだから身動きを取らず落下しているが。
抱え直したのは正解だったようだ。この状態で背負っていたら両腕とも折れていただろう。
地上への落下は地面に叩きつけられる前に止まった。
ようやく止まったのは異境の地。何処の国なのか検討がつかない。
便宜上家の形をした建造物が密集している場所に着いたらしい。
黒に近い地面。地面の端には白い線が引かれている。なんだ、これは。
『パッパァー』
目前には赤い物体が迫っていた。ぶつかる寸前で俺はそれを避けて右に逸れた。
それに乗っている奴らが怒鳴るが言いがかりをつける目つきは良いものとは言えない。
どの国のごろつきかは知らないが、短剣を投げつけることは止めておいた。
異国ならばやめておいたほうが良い。やったところでシェルのように処理する奴らがいないだろう。
「あれー、レイ。おはよう……明るいから間違ってないよね」
「ああ、今が朝か昼かと言えば確かにそうだ」
「それじゃどう……って。え、日本?」
「ここが何処だか知ってるのか」
俺が知らなくともこいつは知っている。ならばこいつの故郷ということだろう、つまり。
地名がわかったのは良いとしよう。世界地図を広げればどの大陸の国かくらいは探せるしな。
「なんでこっちに戻って来てるの……?」
「お前の中の疑問を解決する前に俺の腕から降りたらどうだ」
「あれ? 何時の間に……うん、そうだね。あ」
起きた途端に口を動かすのに忙しかった清海が正面を見上げて閉口した。
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